3学期終業式
暖かな日差しと満開の梅に春の訪れが感じられ、ああ、また一年が終わるのだなあ、と深い感慨を覚えます。去年の4月から恙無く今日まで学校生活を続けられたことを感謝いたしましょう。ちなみに恙無しという大和言葉は、噛まれると死に至る病いを起こす恙虫がいないということから、何が起きてもおかしくない状況を無事に過ごせたときに使われる表現となったそうです。一昨年の5月まで足かけ5年も続いたコロナ禍を思えば、恙無いこと、健康でいられたこと、それだけでも有り難いですし、家族、友達、先生方のお陰で充実した一年がつづけられたことにも感謝しましょう。もちろん、いいことばかりではなく、辛く悲しいこと、嫌なこと苦しいこともあったことでしょう。でもその分だけ一回り強くなり、人の痛みがわかる優しい人になれたはずですから、嫌なことにも感謝しましょう。
実は、この終業式は、私にとってはこの学校での40回目の終業式となり、ここで丸40年教員として勤めてこられたことに深い喜びと感謝を感じます。有難いことに多くの成長期の生徒の人生に親御さんとともに関わらせていただき、成長と人格形成のお役に多少でも立てているという自己有用感を頂け、これまでもそしてきっとこれからも幸せです。このように、皆さんも長く続けていることがあると思いますが、中でも一番長く続けているのは何でしょう。いろいろ思い浮かんでくるでしょうが、意外なところで、息、呼吸を挙げた人はいたでしょうか。私たちには覚えている一番古い記憶がありますが、その遥か前、お母さんのお腹から出て、産声を上げた瞬間から息を始めています。水分は3日、呼吸は3分途絶えると人は命を落とすと言われます。日ごろ全く意識していない恵みに気づけば気づくほど私たちは幸せになれますが、命を支える酸素があること、意識もせずに息ができるのは有難いことです。さらにこの息より続けていることがあります。お母さんのお腹の中で妊娠5週頃から私たちの心臓はコトコトと鼓動を始めました。まだ人の形にさえなっておらず、誰の目にも触れられない暗いお腹の中にいたころから、神様だけは憐れみ深い眼差しで私たちを「生きよ」と静かに見守り、やがて親の元に生まれました。それ以来幸い心臓は黙々と鼓動を続けてくれていますが、そのことに日ごろ気づきません。同じように憐れみ深い神様は変わらぬ眼差しで私たちが気づかなくとも私たちを見守ってくださり、私たちはその眼差しに活かされているのです。しかも、生まれたての自分を思い浮かべ、今と比べてみるとわかるでしょう。何もできず、何も持たずに生まれた私たちが、ここまで大きく成長し豊かにされています。できるようになったこと、手にしていること、実はこれらすべてが親などのお世話になった人を通していただいた神様からの溢れんばかりの恵みです。神様がどれだけ私たちを大切に思い、私たちがどれだけ幸せなのかがわかります。本当の幸せはより多くの恵みを持つことにではなく、当たり前と思いがちな多くの恵みをどれだけ有難いと気づけるかにあります。改めて、この一年間の恵みに感謝をいたしましょう。
さて、今年度は「息をするが如く隣人になれ」を目標に、隣人愛について理解を深めてまいりました。今学期の初めには「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。」というパウロの言葉を用いて、隣人になることは吸う息の如く、怒りもいら立ちも恨みも忍んで相手を心寛く無条件に受け入れることでもあると理解しました。そしてそこまで私たちが人を愛せるのは、私たちこそが欠けたところだらけなのに、それでもなお憐れみ豊かな神様は赦し、先ほどのように、この上なく愛してくださっているからです。
イエス様は人を線引きすることなく自分から隣人になることを、「敵を愛せ」という言葉を使っても説明されています。今年度の最後はルカ福音書のその箇所を聞いて隣人愛についての理解をさらに深めましょう。
「(しかし、)わたしの言葉を聞いているあなたがたに言っておく。敵を愛し、あなたがたを憎む者に親切にしなさい。悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けなさい。〔中略〕人にしてもらいたいと思うことを、人にもしなさい。 〔中略〕あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。 あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」(ルカ7.27-36)
ここでイエス様は隣人になるとは敵味方の線引きを越えて敵と思う人を愛することだと言われます。具体的には、私たちを憎み、悪口を言い、侮辱する人に対して、忍耐強く、怒らず、苛立たず、恨まないこと、それだけでなく礼をもって親切にし、その人を祝福し祈ることだと言われます。
さらに、私たちの頬を打つ者には、もう一方の頬をも向けよといわれます。つまり、心身あるいは物的な痛手を受けても弁償を当てにせず、かえって反対の頬を向ける剛毅さで、怒りや恨みを忍んで赦し、その人に貸を作れと言われます。次に、人への行いの重要な基準を2つ挙げています。一つは人にしてもらいたいと思う善い行いであること、そしてもう一つは見返りや利益を求めない無償の愛であることです。最後に、イエス様は、神様が私たちを先ほど確認したように憐れみ深く愛してくださっているとわかれば、私たちも憐れみ深い人、敵を愛する隣人となれると言われます。
この一年が終わろうとしておりますが、ある中3のお母さんが語学研修から帰ってきた息子が生まれて初めて「僕は幸せだ」と言ってびっくりしたと話してくれました。その生徒は当たり前としか思っていなかった恵みのありがたさにフィリピンで気づくことができたのです。学校生活の中で多くの学びと経験を積めば積むほど、頂いている有難い恵みに気づき幸せと感じることでしょう。そしてその恵みの源が憐れみ深い神様であることにも気づくことでしょう。この一年に感謝するとともに、来年度は一つ上の学年で、神様の温かいまなざしを感じてさらに息をするが如く隣人になれるように頑張ってまいりましょう。皆さんが元気に学校に戻ってくる日を楽しみにしながら、一年を締めくくる私の話を終わります。
中学3年生修了式
79期の皆さん、中学課程の修了おめでとうございます。また、保護者の皆様におかれましては、お子様が修了式を迎えられたことを心よりお慶び申し上げます。皆さんが入学した年は未だコロナの嵐が吹き荒れておりました。入学式にお配りした文書には「学級内で1人目の陽性者が判明してから3日以内に新たな陽性者が判明した場合に、新たな陽性者の最終登校日の翌日から5日間を学級閉鎖とします。」と書かれてありました。いつ何時休校となるかもしれぬこのような緊張感の中でマスク、検温、消毒、人数制限、ソーシャルディスタンスなど可能な限りの感染防止対策を立て入学式を行いましたし、その後のオリエンテーション合宿をはじめ、体育祭も文化祭も同様の対策をとる中で行いました。今日のように何の制約もなく式ができるようになったのは、ようやく中2の5月からでしたが、コロナでつらい不自由な毎日を経験したおかげで、コロナ前には、当たり前としか思っていなかった様々なことが、今の私たちには幸せと思えるようになりました。
3年前、皆さんのお父さんお母さんは少しでもいい教育をと願ってこの上智福岡という私立学校に入れてくださりました。それは、ひとえに皆さんの本当の幸せを願ってのことでしょうし、まさに、うちは他所では教えない本当の幸せを生きる智慧を教える学校です。そして実はコロナの体験にその智慧を悟るヒントがあります。同じ物事を当たり前としか思っていなかった自分と幸せと思っている自分とではどちらが幸せかは言うまでもありませんが、ではコロナを境に、当たり前を当たり前ではなく有難いと思うようになったのはなぜなのでしょうか。一緒に考えてみたいと思います。
思えば皆さんとマニラへの語学研修に行けたことも有難いことでした。エンデラン大学での個人レッスンやグループレッスン、アテネオ・デ・マニラに訪問しての交流、ショッピングモールでの自由行動、こんな英語漬けの毎日をみんなで力を合わせてよく頑張りました。中でも、トンド地区を訪問した日の経験は生涯忘れられないことでしょう。あるお母さんから「お母さんもトンドには絶対に行くべきだ」と子どもに言われたと聞きました。そこで交流した中学生たちは想像を超える貧しさの中でも明るく懸命に生きていました。たまたま私たちが生まれたのは日本で、あの人たちはフィリピンだったというだけなのに、生活に桁違いの差がありました。別のお母さんは語学研修から帰ってきた息子が生まれて初めて「僕は幸せだ」と言ってびっくりしたと話してくれました。ここにも幸せの智慧を悟るヒントが
あります。
「心の貧しい人は幸いである」とイエス様はおっしゃいました。本当に貧しくて何も持たない、何もできない人は、頂けるものすべてが有難く幸せと感じるでしょう。心の貧しさとはその人のような心の在り様です。実はコロナの時に多くを奪われ何もできなくなった私たちは否応なしに心の貧しさを与えられました。またトンド地区の密集した不衛生なスラムを訪れた時、私たちはトンドに生きる人たちに我が身を置き換えて、「私だったらこんな貧しい生活にはとても耐えられない。」と思いました。この瞬間、私たちはあの貧しい人たちの目線に立ち、心が貧しくなっっていたのです。だから、今まで当たり前としか見えなかったものが桁違いに有難い恵みだともわかったのです。さらに私たちが幸せだということも。これこそが「心の貧しい人は幸いである」という本当の幸せを生きる智慧です。そして、皆さんはコロナとトンドの経験をしたおかげで、そこに立ち返ればいつでも心の貧しさを持て、何事も有難いと感じ、いつも幸せでいられます。この学校でこそ学べたこの大切な智慧を活かして、これから始まる高校生活を感謝のうちに歩んでいきましょう。
ところで、「こんな貧しい生活にはとても耐えられない。」と思った時、心は痛み複雑な気持ちになったことでしょう。その痛みはトンドの人々が耐えている痛みへの共感でした。また複雑な気持ちとは、自分が桁違いに恵まれていることへの有難さと申し訳なさ、そしてだからこそ何かをせねばという湧き上がる思いだったと思います。私たちは人の痛みを我が痛みと感じた時にこそ、考えるより先に心と体が疼き、何かをせねばという思いに駆られて他者のために他者とともに生きる人になるのです。
4月から皆さんは高校に上がり、人のお役に立てる学力と人間力をさらにつけていきます。様々な体験を重ねて人の痛みへの感受性ともいえる憐れみ深さをも磨いていきます。その3年間の中で、心を痛め皆さんの力を必要としている人を見つけてください。そして、将来その人のために何ができるかを探究してください。一人でできることはたとえ小さくても他者とともになら何でもできます。皆さん一人ひとりが、心の貧しさをもって他者とともに人を幸せにし、その人の笑顔で自分も幸せになれる人へと成長してゆくことを心より祈って、修了式に当たっての言葉とさせていただきます。改めて、79期の皆さん中学課程修了をおめでとうございます。