上智福岡中学高等学校

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2019年11月25日

フランシスコ教皇 長崎ミサ説教

昨日フランシスコ教皇の長崎ミサに参加してきました。

大勢の人たちと素晴らしい時間を共有することができました。

ミサの報告は後日致しますが、取り急ぎミサの公式ライブ配信から説教を文字起こししました。

フランシスコ教皇のミサでのメッセージです。


 

「イエスよ、あなたのみ国においでになるときには、私を思い出してください」(ルカ23・42)。

 

典礼暦最後の主日の今日、イエスとともに十字架につけられ、イエスが王だと気づき、そう宣言した犯罪人の声に私たちも声を合わせます。栄光と勝利には程遠いその時に、嘲笑と侮辱の声高な叫びの中であの盗人は声を上げ、信仰を宣言しました。それはイエスが最後に聞いた言葉であり、御父にご自分をゆだねる前、イエスは最後に言いました。「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23・43)。盗人の後ろ暗い過去は一瞬にして新たな意味を得たかのようです。すなわち、主の苦悶にしっかりと寄り添い、いつでもどこにおいても救いを差し出すという主の生き方を確かめるものとしたのです。

 

カルワリオ、それは無秩序と不正義の場、無力と無理解が相まみえ、罪なき者の死の前で、無関心で自己を正当化する者たちの悪口とつぶやきが響く場です。それがこの悔い改めた盗人の姿勢によって、全人類にとっての希望の一語に変わるのです。苦しむ罪なき人への自分自身を救えというあざけりや喚き声は、決めぜりふにはならず、むしろ歴史を作るまことの形として、心を動かされるに任せ、いつくしみによって決断する者たちの声を呼び起こすのです。

 

今日ここで、わたしたちの信仰と約束を新たにしたいと思います。あの悔い改めた盗人と同じく、わたしたちは、失敗、罪、限界ばかりの人生をよく分かっています。けれどもそれがわたしたちの現在と未来を限定し、決定づけるものであってほしくありません。私たちは、「自分自身を救ってみろ」という軽々しい無関心の声で、面倒を避ける空気に自分も染まりがちなことを知っています。多くの罪なき者の苦しみを、共に背負うことの大切さを忘れてしまうことも少なくありません。この国は人間が手にしうる破滅的な力を経験した数少ない国の一つです。ですからわたしたちは悔い改めた盗人と同じように、苦しむ罪なきかた、主イエスを弁護し仕えるために、声を上げ、信仰を表明する瞬間としたいのです。主の苦しみに寄り添い、その孤独と放棄を支えたいと思います。そして今一度、救いそのものである、御父がわたしたち皆に届けようとするあのことばを聞きましょう。「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」。

 

救いと確信。それは、聖パウロ三木と同士殉教者、そしてあなたがたの霊的遺産に刻まれた無数の殉教者、彼らがそのいのちをもって勇猛にあかししてきたものです。わたしたちは彼らの足跡に従い、その一歩一歩を同じように、勇気を携えて歩みたいと思います。十字架上のキリストから与えられ、渡され、約束された愛こそが、あらゆるたぐいの憎しみ、利己心、嘲笑、言い逃れを打ち破るのです。そこに、良い行動や選択を前にして身をすくませる無意味な悲観主義や、感覚を鈍らせる物的豊かさにことごとく勝利する力があります。第二バチカン公会議が私たちに思い出させてくれるとおりです。真理から遠いのは、この世には永遠の都はないといって、来る都を探し求めているつもりで地上での務めをないがしろにし、注意を怠る人です。まさに告白する同じ信仰で、神に呼ばれた召し出しの崇高さを示し、それが透けて見えるほどにすべきなのです(第2バチカン公会議「現代世界憲章」43参照)。わたしたちの信仰は生きる者たちの神への信仰なのです。キリストは生きておられ、わたしたちの間で働かれ、わたしたち皆を命の完成へと導いておられます。キリストは生きておられ、わたしたちに生きるものであってほしいと願っておられるのです。このかたはわたしたちの希望です(使徒的勧告『キリストは生きている』1参照)。

 

わたしたちは毎日こう祈っています。主よ、み国が来ますように。こう祈りながら、自分の生活を活動が賛美となるよう願っています。宣教する弟子としての使命が、来るべきものの証言者や使者となることならば、わたしたちは悪や悪行に身を任せてはいられません。反対にその使命は、神の国のパン種になるよう駆り立てるのです。家庭、職場、社会、どこであれ、置かれた場所でパン種となるのです。聖霊が人々の間に希望の風として吹き続けるための小さな通気口となることです。天の国は、わたしたち皆の共通の目的地です。それは将来のためだけの目標ではありません。それを請い願い、今日からそれを生きるのです。病気や障がいのある人、高齢者や見捨てられた人たち、難民や外国からの労働者、彼らを取り囲んで大抵は黙らせる無関心の脇で、今日それを生きるのです。彼らは皆、わたしたちの王、キリストの生きる秘跡なのです。(マタイ25・31-46参照)「もしわたしたちが本当にキリストの観想によって出発したのであれば、あの方がご自分を重ねたいと望んだ人たちの顔に、あのかたの姿を見いださなければならない」(聖ヨハネ・パウロ2世使徒的書簡『新千年期の初めに』49)

 

カルワリオでは、多くの声が沈黙させられました。他の大勢は嘲笑し、盗人の声だけがそれに逆らい、苦しむ罪なきかたを擁護できたのです。それは勇気ある信仰宣言です。わたしたち一人ひとりが決断することです。沈黙か、嘲笑か、あるいは告げ知らせるか。親愛なる兄弟姉妹の皆さん、長崎はその魂に、いやしがたい傷を負っています。その傷は、多くの罪なき者の、筆舌に尽くしがたい苦しみによるしるしです。これまでの戦争によって踏みにじられた犠牲者たちは、さまざまな場所で勃発している第3次世界大戦によって今日もなお苦しんでいます。今ここで一つの祈りとして、わたしたちも声を上げましょう。今日、この恐ろしい罪を身をもって苦しんでいるすべての人々のために。そして、あの悔い改めた盗人のように、黙りも嘲笑をせず、むしろ、自ら声を上げ、真理と正義、聖性と恵み、愛と平和のみ国を告げ知らせるものが、もっともっと増えること増えるよう願いましょう。