本年度の学校生活が本格的にスタートしました。昨日4月8日(月)に在校生の始業式、そして本日4月9日(火)は新中学1年生の入学式が執り行われました。本年度の学校目標は「息をするが如く隣人になれ」。このテーマをもとに学校長から生徒に話がありました。以下、終業式、入学式の学校長訓辞です。
【始業式訓辞】
皆さん、おはようございます。今日から、新しい年度、新しい学年、新しいクラス、新しい中1も入り1年が始まります。今年度から下校時間、7校時の曜日など学校生活も少し変わり戸惑うこともあるかもしれませんが、今日からの一年は無限の可能性を秘めています。例えば高3の皆さんは来年の今日どこで何をしているのかは、この1年の過ごし方でいかようにも変えられます。1年後に大きく成長した自分を思い描いて、希望を胸にMagis とAgere Contraの精神で挑みましょう。
さて、今年の学校目標は「息をするが如く隣人になれ」です。隣人になることについて語る善きサマリア人の譬えは、皆さんなら知っているはずです。その中でイエス様は、私たちに本物の幸せをもたらす隣人への態度を教えてくださっています。聖書を聞きながらそれを思い出しましょう。
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 (ルカ10.25-29)
ここでイエス様は、追いはぎに半殺しにされたユダヤ人の横を通る3人の話を始めます。1人目も2人目も半殺しにされた人と同じユダヤ人です。それなのに無視して去ってしまいます。3人目はサマリアというユダヤ人から忌み嫌われていた地方出身の人です。それにもかかわらず、歩み寄って手厚く介抱します。この譬えの後、イエス様は律法の専門家に「だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」と尋ねます。 律法の専門家が「その人を助けた人だ」と答えると、イエス様が「行って、あなたも同じようにしなさい。」と言います。ここでの律法の専門家とイエス様の隣人についての考えは180度違っています。「誰が私の隣人か?」と尋ねた律法の専門家は、隣人とそうでない人は線引きするものと思っています。実はこの態度は決して他人事ではありません。私たちも「この人は友達、あの人はそうでない」「この人は助ける、あの人は見て見ぬふり」と気づけば線引きしています。これに対してイエス様は「誰が私の隣人か」ではなく「あなたは隣人になりなさい」と私たちの態度の根本的な転換を求めています。それは「誰が私の隣人か」と線引きする態度は分裂や対立しか生まない一方で、だれに対しても自分から隣人になる愛の態度は本物の幸せを生むからです。果たして私たちの態度は「誰が私の隣人か」でしょうか。それとも「私は隣人になる」でしょうか。このどちらなのか今一度考えてみましょう。
では次に、「息をするが如く隣人になれ」とは、どういうことなのでしょう。息については日頃意識することがないので、その特徴をじっくりと考えて皆さんなりにその意味をつかんでほしいと思います。詳しくは皆さんの担任の先生に説明していただくようにお願いしていますが、私なりにヒントを1つ挙げたいと思います。息には吐く息と、吸う息があるということです。隣人になるのにも息を吐くように、歩み寄る、手を差し伸べる、自分の時間、自由を相手に捧げるなど、自分の中のものを外に向かって差し出す動きがあると思います。しかし、息は吐くばかりではできません。吸う必要があります。胸の中に空気をそのまま取り入れます。同じように隣人になるにも、自分の胸を開いて人を受け入れる、理解する、時には理解できない人はあるがままに包み込み赦すことも必要です。これには粘土のように相手に合わせて自分を変えられる力が必要となります。このような隣人のなり方は見落とされがちです。吸う息の如く自分を柔軟に変えて人を受け入れることは大きなポイントではないでしょうか。このほかにも私たちは、意識せずに、いつどこでも、絶えず息をしています。また、誰にも気づかれずに息をしています。その如く隣人になるとはどういうことなのかを自分なりの言葉で言えるようになって実行してください。この一年、息をするが如くどこにいても自分から隣人になり、この学校を隣人愛にあふれる学校にみんなでしていきましょう。無限の可能性を秘めたこの一年が皆さんにとって素晴らしいものとなることを祈って、始業式にあたっての話を終わります。
【入学式訓辞】
新入生の皆さん、ご入学おめでとうございます。また、保護者の皆様、お子様のご入学を心よりお慶び申し上げます。今日から皆さんは上智福岡中学高等学校第81期生となります。皆さんの母校となる上智福岡は、キリスト教の「隣人愛」に基づき「より大いなるものを知り、他者に奉仕し、世界への懸け橋となるリーダー」を育てる学校です。
まず、この学校の根本にある「隣人愛」とはどのようなものなのでしょうか。今から読む聖書の「善きサマリア人」の譬えを聞いて考えてみましょう。
ある律法の専門家が立ち上がり、イエスを試そうとして言った。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」 イエスが、「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」と言われると、彼は答えた。「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります。」 イエスは言われた。「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる。」 しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った。 イエスはお答えになった。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った。ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った。 ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、 近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。 そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います。』 さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」 律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」(ルカ10:25-37)
実は通りがかりの3人のうち1人目と2人目はともに半殺しにされた人と同じユダヤ人でした。一方3人目のサマリア人はユダヤ人から汚れた異邦人と見下されていました。この譬えの中で「隣人を自分のように愛しなさい」というイエスに「誰が私の隣人か?」と尋ねた律法の専門家は、無意識に隣人とそうでない人は線引きするものと思っています。実はこの態度は決して他人事ではありません。私たちも気づけば「この人は友達、あの人はそうでない」「この人は助ける、あの人は見て見ぬふりをする」と様々なレベルで人に線引きをしています。そんな私たちにイエス様は「誰が私の隣人か」ではなく、「あなたは隣人になりなさい」と私たちの態度の180度転換を求めています。それは「誰が私の隣人か」と線引きする態度は分裂や対立しか生まないからです。他方、誰をも線引きせず自分から隣人になる愛の態度は本物の幸せを生みます。誰をも線引きせず隣人になる態度、これが本校の教育の根本にある「隣人愛」です。
今日から始まる6年間の学校生活の中で、私たちは皆さんの隣人となり、神様がお創りになったこの世界の素晴らしさ、美しさ、真理を教え、一人ひとりが頂いているタレントを伸ばします。私たちは皆さんの学力だけではなく、苦労を惜しまず人を幸せにする心、様々な線引きを乗り越えて世界への架け橋、隣人となる力を鍛え、皆さんを「より大いなるものを知り、他者に奉仕し、世界への懸け橋となるリーダー」へと育てます。皆さんはここにいる163人の仲間とともに楽しく実り豊かな学校生活を送る中で、やがて苦労を惜しまず人を幸せにするとそれ以上の幸せとなって返ってくることや、私たちの当たり前の生活が実は決して当たり前ではないこと、さらに世界のどこかに自分を必要としている人がいることが実際にわかってくるでしょう。その時に、上智福岡生らしく自分からその人の隣人となり、苦労を惜しまずその人を幸せにしてほしいのです。皆さんがこの6年の間にそのような人に育って行くことを切に願って、ご入学に当たっての歓迎の言葉とさせていただきます。